幼少期~ウォーカーズ結成
スコット・ウォーカーは1943年1月9日、アメリカはオハイオ州ハミルトンで生まれた。
本名はノエル・スコット・エンゲル。父親は石油会社の偉いさんでノエル・ウォルター・エンゲルという。
スコットの「ノエル」の部分は父の名前との混同を避けるために削られてしまったらしい。幼いスコットはこのあと父の仕事の関係で、1944年にテキサス、1950年にはデンバーに、そして1953年にニューヨーク、1957年ロサンゼルスにと転居を繰り返す。この間ニューヨーク時代に子役としてショービジネスをスタートさせる。
そしてロサンゼルスに居を移してから、本格的に音楽ビジネスへと進んでいった。
ラッキーだったのは、当時の人気歌手エディ・フィッシャーの目に止まり、オービット・レコードから本格的にデヴューを果たし、彼のNBCの「エディ・フィッシャー・ショー」にも出演。
順調にいくかと思われた矢先、エディ・フィッシャーがエリザベス・テーラーとの離婚により人気失墜してしまい、スコットは後ろ盾を失くしてしまう。
オーストラリアとか一部の国では、少し注目を集めるも、大したヒットもなくハイ・ファイ・レーベルに移籍するも、8枚出したシングルも泣かず飛ばずの結果に終わり、ポップ歌手としてのスコットは一応はピリオドを打つ。
しかし、1962年頃からビーチ・ボーイズらのサーフ・ミュージックがブームとなり、ベース・プレイヤーとして最出発していたスコットにラッキーが訪れる。
またホットロックの流行が追い打ちとなり、スコットはハリウッドのセッション・ミュージシャンのなかでも最も売れっ子となり、一流アーティストのライブのバック演奏をする日々となった。
またルータズのメンバーとしてインストの「レッツ・ゴー」もヒットさせたり、ジョン・スチュアートとダルトン・ブラザーズとして「太陽と踊ろう」をレコーディングをしたりとそれなりに活動を続けていた。
 
そして1963年に以前、子役時代に知り合ったジョン・マウスとの運命の再会を迎える。
当時ジョンは妹とバンドを組んでおり、そこへスコットがベーシストとして加入することとなる。
そのうちジョンとスコットの二人となり、バンド名を「The Walker Brothers」と変える。一説によるとジョンが「マウス」をネズミと間違えられるのを嫌がっていたという。
なぜ「Walker」なのかは、不明である。このウォーカーズは、ハリウッドのクラブでは人気のグループとなり、有名なスター達も彼らのステージを見に来ていたといわれる。テレビにも再三出演し「ハリウッド・ア・ゴー・ゴー」などで人気を得る。日本の音楽評論家朝妻一郎はこの番組を見て、ウォーカーズを押すように国内のレーコド会社に進言するが、時期尚早と取り上げられなかったらしい。またこの頃映画「ビーチ・ボール」にも出演し、スコットの自作である「ジャークを踊ろう」を歌っている。ところが、折からの「ビートルズ旋風」に席巻されていた当時のアメリカでは、彼らの入り込む余地はなく、またロングヘアーにイメチェンした彼らに「ビートルズの亜流」とのレッテルを貼られ、人気も低迷してしまっていた。この頃交通事故が縁で知り合ったゲイリー・リーズがメンバーに加わり、彼の提案により渡英することとなる。
この時のエピソードにイギリスのプロデュサー、ジャック・グッドの目に止まり4週間のテレビ出演の契約をしてからの渡英といわれていたが、実際はPJ Probyと一緒にロンドンへ行ったことのあるゲイリー自身の発案だったようだ。
ウォーカー・ブラザースの大躍進
かくして65年2月ウォーカー・ブラザースはアメリカで録音された「プリティー・ガールズ・エヴェリー・ホエア」でイギリス・デヴューを果たす。(このレコーディングの時にはストーンズが見に来ていたらしい。)
2作目「ラブ・ハー」のレコーディングの時にプロデューサーのジョニー・フランツがリード・ヴォーカルを決める際「この中で誰が一番声が低いのか」と問い、ジョンが「スコット」と答えた時点で、スコットのリード・ボーカルが決まった。この「ラブ・ハー」が全英20位にランク・インしウォーカーズ初のヒットとなった。続く3枚目の「涙でさようなら」が全英1位、全米16位となり、まさに当時「ポップス界のイソップ童話」と比喩された奇跡的な成功を収めてしまうのである。アメリカでは芽が出なかったグループがビートルズのお膝元で堂々の1位を獲得してしまったのである。ただ、彼らにとってラッキーだったのは、この時期ビートルズを始めストーンズ、アニマルズ、ホリーズなんかが海外に出ていっていたのも幸いしたといわれた。
4枚目の「僕の船が入ってくる」も全英3位、全米63位となり、ウォーカーズ人気も定着しつつあった。11月初のLP「Take It Easy with the Walker Brothers」をリリース。全英3位となる大ヒットを記録する。またこのアルバムはドイツにおいても7位にランク・インし、ウォーカーズのヨーロッパでの人気も本物に近づきつつあった。そして66年2月「太陽はもう輝かない」を発売。全英1位、カナダ2位、ドイツ4位、アイルランド5位、ノルウェー6位、ベルギー15位そして全米13位となるメガ・ヒットとなる。そして7月EP「アイ・ニード・ユー」を発売。これも全英EPで1位にランク・インさせ、ウォーカーズの人気も最高潮に達する。
同じく7月にシングル「心に秘めた想い」をリリース。ところが全英13位、ドイツで37位どまりとなり、すこし不安が残る結果になる。この年8月、スコットはアパートの自室において自殺未遂事件を引き起こす。アメリカ時代、渡英した時期ともに明るく、くったくのない若者だったはずのスコットを何が屈折させたのか。厳しいショービジネスの世界で生き抜くタフさが欠如しているとも言われていたが、真意の程はスコット自身以外には知る由もないだろう。その月に2枚目のアルバム「Portrait」がリリースされた。このアルバムで2曲スコットのオリジナル曲が入っている。(1曲はジョニー・フランツとの共作)このアルバムも全英3位、そしてドイツでも8位と前作同様大ヒットとなった。
ウォーカーズ人気の停滞~解散
9月「Another Tear Falls」をリリースするも全英でトップ・テンに届かず12位に、ドイツにおいても24位どまりとなる。心なしか、66年の後半になり、ウォーカーズのシングル盤の売り上げの勢いに陰りが見えてきたような感じというか、雰囲気が漂っていた。
12月にはEP「Solo John/Solo Scott」をリリースEP部門で4位にランク・インさせる。まだアルバムやEPにおいては、存在感を見せていた。しかし同月にリリースした初の映画主題歌「Deadlier Than the Male」は、全英のみで32位となる。またスコットにはB面扱いとなった、力作「Archangel」を巡っての不満が残った。67年に入り「stay with Me」をリリース。その際スコットは、「この曲がNo.1にならなければ、僕たちは解散するよ」と宣言する。結果は全英26位という不本意なものであった。しかし、3月リリースされたアルバム「Images」は、全英6位、ドイツ23位と相変わらずの強さをみせてはいた。2月5日オセアニアの公演のあと初来日する。たった4日間の日程だったが、「ヤング720」「ビクター・歌うバラエティ・ショー」「ビート・ポップス」「11PM 」など精力的に活動し、爆発的なウォーカーズ・ブームを巻き起こす。彼らの「ダンス天国」を求めてレコード店に列が出来た、という伝説がまことしやかに流れたりしました。短い滞在であるにも関わらず彼らの残したインパクトはあまりに強烈で、ビートルズの人気にも肉薄するかのような一代ブームとなりました。
67年5月4日ウォーカー・ブラザースは解散しました。
ジョンは、あるインターヴュで「もうスコットの面倒をみるのはコリゴリだよ。いつ仕事場に来るのか、すっぽかされるのか心配するのは、たまらないよ」とスコットに対する不満をぶちまけていました。それはともかく、解散後にリリースされた「Walking in the Rain」は全英26位どまりで、もうウォーカーズとしては、イギリスにおいてはマンネリ化していたのは否めない事実であったように思われます。
一方、火がついてしまった日本のファン、レコード会社、マスコミは解散を受け入れることは容易ではなかった。日本フィリップスの本城氏や山本氏、そして「ミュージック・ライフ」などの努力により、ウォーカーズの解散コンサートが1968年の1月に決まる。
このことについてジョンは「断るには申し分のない条件であったので、受けました。ウォーカーズの成功では馬一頭買える程度しかなかった。それに皆さんは信じられないと思うけれど、日本で僕たちはビートルズのような待遇を受けるんだ」と答えていました。
スコットは「金さ。断るのにはもったいない条件だった」とイギリスのファンに配慮した答えをした、と報道されていましたが、私が当時感じたのは、本音であったように思いました。
かくして、前例のない解散後の日本公演は決まり、ウォーカーズの人気は爆発的なものとなり、ビートルズをも凌駕するとの評価を受けることとなりました。