Solo Works 67~74年

1967年
        
1967年9月16日にスコットは、ファーストアルバム「SCOTT」をリリースする。
なにか、スコットらしくない用意周到な感じがしました。ソロになる時に、レス・リードなどイギリスの有力ソングライターから楽曲の提供を告げられるが、スコットは拒否。このことを当時このアルバムのトラック・リスト見て、数字を用いた面白い比喩がありました。スコットは50~100万(ポップス)をとらずに5千~5万(ジャズ)を取った、と言われました。
レス・リードなんかはスコットに対して「クリフ・リチャードよりもルックスはいいし、歌もずっとうまい。イギリスを代表するシンガーになれる」と太鼓判を押していました。しかしスコットは迷わず我が道を突き進んだようでした。ジャック・ブレルをメインとするこのアルバムは、イギリスで反響を呼びました。全英3位、しかもこの当時の1位はビートルズの「サージェント・ペパーズ」と「サウンド・オブ・ミュージック」といった世界的な大ヒットアルバムと互角に戦ったのです。ヒット・チャートにも17週登場。幸先よいスタートをきりました。日本では「いとしのマチルダ」がデヴュー・シングルとして、リリースされヒットしました。またウォーカーズ人気はとどまることなしで「ダンス天国」「天使のカンタータ」「月に消えた恋」などヒット連発となっていました。ただ本国ではシングル盤の発売はなく、スコットは「僕はシングル向きのアーティストではない」と公言していました。
1968年
1968年スコットは、ジョン、ゲイリーとともに「ウォーカーズさよなら公演」を日本で実現する。1月2日大阪を皮切りに、日本武道館を含め5ヶ所で公演を行った(大阪は2回)
滞日期間は非常に精力的に活動し「不二家」のコマーシャルに出演したり、ゲイリーのレ
コーディングをスコットがアシストして(作詞も)行われました。また、この来日公演の模様はイギリスのRediffusion TelevisionでBarry Cawtherayがプロデュースし「Brothers No More」のタイトルで3月6日に全英でテレビ放映されました。60分モノクロでした。
この異例の公演のあと、ウォーカーズそしてスコットの人気は、前にもましてヒートアップしていきます。「ミュージック・ライフ」など毎月スコットの記事が掲載され、、当時の海外アーティストでの人気は、まさにナンバーワンでした。
前年12月にイギリスでスコットのデヴュー・シングル「ジャッキー」がリリースされましたが、ブレルらしい内容の過激さから放送禁止となり22位どまりとなる。
68年4月にアルバム「SCOTT2」(全英1位)とシングル「ジョアンナ」(全英7位)
をリリース。ともにヒットし、英国内でのスコットの人気を最高潮を迎えていた。
特に「SCOTT2」は年間最優秀アルバムに選ばれるなど大ヒットとなった。
ファンクラブの会員数がビートルズのそれを超えたとか、ルルと一緒にバレンタイン・ディでミスター・バレンタインに選出されたとか、ファン投票でイギリスの男性歌手部門で第一位に選出されたとか、とにかく話題の多い一年でした。
日本においては、8月の来日予定をスコットが急遽キャンセルし、原因は様々な憶測を呼んだが、当時の報道では精神疾患、警察沙汰、セックス上の悩みのどれかであるとのことであった。スコットは、ファンをやきもきさせながらも、英国と同じく各音楽雑誌の人気投票で1位を獲得する。
深夜放送でもリクエストが多く、小林克也さんのDJで「Jacky by Scott Walker!!」と絶叫していたのを懐かしく思い出します。
秋からBBC‐TVで「スコット・ウォーカー・ショー」が始まる。とりあえずはパロット版ということで、好評ならば本格的な番組になるということだったが、結果69年の春より開始となる。これはすごいことで、この当時自分のワンマン・ショーがもてるアーティストは、クリフ・リチャード、トム・ジョーンズ、ダスティ・スプリングフィールドなどほんの一部に限られていました。スコットは春にソロになったばかりですから、異例の抜擢と言わざるを得ません。
とにかく68年という年はスコットの意志とは関係なく、まさにスコットにとっては最盛期だったことは異論を挟む余地がないことだけは間違いないところだろう
1969年
1969春からBBC「スコット・ウォーカーショー」は本格的にスタートする。
また3月には3枚目のソロ・アルバム「SCOTT3」がリーリースされる。
13曲中10曲がスコットの自作、ブレルの曲が3曲という、冒険的なアルバムであった。
最初このアルバムを聴いた時は、正直違和感があった。実際「1」と「2」のスコットの自作にも少なからず感じていたが、絶妙な選曲で薄められていたのかもしれなかった。
今回は逃げ場がないというか、これでもか、とスコットの世界が展開されていた。
今聴くと名曲だな、と思うものも、あの時代69年にはやはり耳慣れないサウンドであったように思う。逆にいえば、あの時代にこんな曲作りが出来たスコットは、やはり只者ではないと思います。
アルバム全英3位にランク・イン、多分にスコットの当時の人気によるものだと感じました。
7月BBC‐TVのショーから新たに録音したアルバムがリリースされました。
これもまた、あの当時びっくりさせられました。
全曲スタンダードな曲ばかりで、ソロになってからのスコット姿勢からは考えられないアルバムだからです。「これは寄り道ではなく、通らねばならない道だった」とスコットはコメントしていましたが、よくわからない理由だな、と感じました。
またマスコミは「このアルバムがスコットのデヴュー・アルバムであったならば、彼はシナトラのようになれた」と絶賛ではなく、頑ななスコットに対する批判のように受け止めたのは、私だけだったでしょうか。
とにもかくにもこのアルバムは全英7位となるヒットとなる。
この当時、スコットの次回作はどういうものになるんだろうか、と興味を持ったもんでした。
前年来日をキャンセルしていたスコットは、69年8月にゲイリーとともに来日しジョイントコンサートを行うこととなった。しかし、飛行嫌いなので、シベリア横断鉄道で楽しい旅をしようとした。ところが、テープレコーダー、テープ、大量のビタミン剤を所持していたためスパイと間違えられ、ソ連当局の凄まじい取り調べを受けることになった。
 シベリア鉄道に17日間閉じ込められ、英国に帰国、強度の神経衰弱でダウン。
結局は、69年の来日もキャンセルとなった。
この年スコットの話題が豊富であった。また「ミュージック・ライフ」のインターヴュ記事も多かったように思います。一部覚えている分を列記してみます。
 「僕は働くのが嫌いだ」地方のキャバレー廻りの感想を聞かれたときに答えていました。
稼げる時に稼いで、あとは何もせずに暮らす。無くなったら又働くというような事を答えてました。
「僕は社会主義者だ」このときの質問は覚えていませんが、当時は若者は左翼思想が多かったし、今では信じられませんが北朝鮮が史上最後の楽園と喧伝されていましたので、その影響かな、とおもいました。オーソン・ウェルズやチャップリンなんかの影響もあったのでしょうか。
「ディランは詩はいいが、曲はイマイチ。ブレルは詩・曲はいいけどヴォーカルがイマイチ。僕は両方うまくいけるようになりたい」
たぶんこの頃、自分のオリジナルに対して自信が持ててきたのかもしれません。
11月に、なんとこの年3枚目となるアルバム「SCOTT4」をリリースする。
全曲スコットのペンなるこのアルバムは、非常に個人的なアルバムのように映った。
結果は最悪で、1週間で廃盤になったようなことを聞いたことがあります。
これを契機にまるで「一夜にして」という感じで、スコットの人気が失墜してしまいます。
イギリスの当時の雑誌で以前熱狂的なスコット・ファンだった女の子が言ってました「スコットはこちらが望むものをひとつも与えてくれない」と。
1970年~1974年
70年3月、スコットは2年ぶりに来日する。今回は約一ヶ月の長期滞在となった。
15回の公演が行われたが、30分程度のショーの内容に不満が残った。スコットは心外だと反論していたが、どうやらイギリスでやっていたルルなんかとのパッケージ・ショーをそのまま持ってきたんじゃないかと思った。コンサートはともかく、3月17日に放映されたNHK「世界の音楽」での熱唱は圧巻でした。やはりスコットは一流アーティストであると再認識させられました。私は大阪の厚生年金会館の公演を見ました。青春時代の大切な思い出です。
この年はスコットに関するニュースもまったくなかったです。なんでもアムステルダムに移り住んだとか、どうだとか…。おかげでミュージック・ライフで2年連続男性歌手ナンバーワンの座も滑り落ちることとなりました。
12月に「スコット5」をリリースしましたが、ぱっとしませんでした。10曲が「バンドが入ってくるとき」の組曲になっており、後半5曲が取って付けたようなスタンダードナンバーになっていました。オリジナルはスコット一人じゃなくマネージャーのアディ・セメルとの連名になっていましたし、クレジット名もいつものEngelではなくWalkerとなっていました。また前回スコット・エンゲルだったのが、スコット・ウォーカーに戻っていたり、なんとこのアルバムを作ったのも南フランスのバカンス中に一週間で書き上げたらしく、スコットの投げやりな感じがひしひしと伝わりました。でも私はこのアルバムが好きです。なんか逆に力みがなく曲自体も非常に聴きやすくなっていました。また後半の5曲は力みがなく至極の出来栄えでした。
71年にスコットは映画「恋」の主題歌をリリースする。この曲のレコーディングの時にいざこざがあり、映画はヒットしましたが、曲はまったく売れませんでした。実は誰に歌わすか、色々選考があったらしいですが、ジョニー・フランツが強引にスコットに歌わせたらしいです。果たしてスコットは泥酔状態で現れ、そのうえ歌詞も変えて歌い、怒りを買いました。フランツはこの曲でスコットを再起させたいと思っていましたが、スコットの望むものではなかったのでしょう。
72年には「The Moviegoer」のみの発売となる。「恋」のヒットを見越してのアルバムだが、「イギリスのアンディ・ウィリアムス」は実現されず、取り残されたアルバムとなる。
73年スコットは長年いたフィリップスを離れることとなる。5月ラスト・アルバム「Any Day Now」をリリース。今回もカヴァー一色で代り映え無し。11月にCBSへの移籍第一弾「Stretch」をリリース。「ニュー・スコット」に期待するもまたカヴァー一色で代り映えなし。ただスコットは「僕は家に自分のアルバムを置かない。聴くことがないからね。ただ今回のアルバムは別だ。聴く価値のある一枚だ」と語っていたが本音ではないだろう。実はCBSもソングライターとしてのスコットは評価してはいたが、以前の「SCOTT4」の失敗をみてきているだけに、スコットにレコーディングする前のチェックを要求したという。これにスコットは激怒し「あなたがたに自分の曲を評価してほしくない」と拒否したという。以前あるライターの方にスコットが大量に自作の譜面を破棄した時がある、と聞いたことがあるが、それがこの時期だったんでしょうか。
かくしてまたもやスコットのカムバックはならず、翌年発売された「We Had It All」などいつリリースされたのかわからぬ間に消えてしまっていました。